Junji 自然to暮らしのデザイナー@GlocalGreenLifeLab

地球と自分を大切にする暮らしの実験室

読まなくていいです。ダラダラ日記vol.1「意識高いの謎」

意識が高い?

今回は思っていることをつらつらと話す、ということもしてもいいかなと思っています!

 

なんて着地点はありませんので読まなくてもいいで。

#いいで

#上から目線のウザさ

 

そんなこんなで、今日のダラダラ日記は「意識高いの謎」というお話し。

 

 

 

気候変動ストップの活動をメインに、社会問題について関心を持って、社会運動とかソーシャルビジネスのお仕事もしたり、選挙運動もやってきました。

 

そんな中で思ったこと。

 

社会問題に向き合うことを「意識が高い」で終わらせたくない。

 

先日、テレビで放送された某番組で、ヨーロッパの人々の人権問題に関する意識のことを取り上げていました。

 

内容は、カタールで開催中のワールドカップを、ヨーロッパの人々がカタール開催のワールドカップが人権問題に関っているという理由で観戦しない人がいる、という内容。

 

そのことが放送された後、番組司会者が「ヨーロッパでは意識高いひとが多いからね」というようなことをコメントしました。

 

わたしはテレビだけでなく、自分の社会に問題に向き合う生活について、友人にも「意識高いね」と言われます。

 

わたしは「意識が高い」ということで、社会問題に向き合っているわけではありません。

 

解決しなきゃいけない問題が、「意識高い」になってしまう違和感があります。

 

社会問題に対して、「意識が高い」ということで、一本線を引かれている理由はなんででしょうか。

 

社会問題の仕組みは、あらゆる問がは繋がっていて、負のスパイラルが、さらに負になる、悪循環になる。

 

「気候変動によって作物が取れない、さらには人口が増える、食糧不足になる、食糧をめぐる紛争になる、女性や子どもなど肉体的に弱いヒトから被害にあう……」

 

一例ですが、すでに起こっています。

 

ひとつでも早急に解決しなきゃいけません。

 

「意識たかい」で線を引かれては、一歩が遅れます。

 

だから「意識たかい」と呼ばれたくない。

 

「意識がたかい」ひとだけが社会問題に向き合う、とも思われたくはありません。

 

意識が高いから、社会問題に向き合う。

意識が高いから、政治について話す。

 

そんなことではなくて、日本人のみんなが普通の会話に、気候変動のこと、人権のこと、戦争のこと、政治のことを話す社会に変わってほしいと思います。

 

そんな社会での、

 


話のネタになるような記事をこれからも書き続けたいです。